フランスの職業高校生にみる職業移行問題の構造

――高学歴化社会における階層・移民・性差――

 

荒井 文雄

要旨

 本稿では、フランスの職業高校の生徒たちが置かれている困難な状況を、これまで日本では試みられることがきわめて少なかった社会学的観点から研究する。彼らは、中学校までの段階で、成績不振のために長期の進学コースに行く可能性を絶たれている。その一方で、職業高校の教育が想定する生産労働者としての職業生活も受け入れることができない。彼らは多く労働者家庭の出身であり、学歴競争を勝ち抜くための経済資本・文化資本を欠いていることが多い。この点で、フランスの職業高校は、社会階層構造の「再生産」の機能を果たしているといえる。

 雇用情勢の悪化と学歴資格のインフレのせいで、職業高校の生徒たちもより上の学歴資格を目指すようになったが、途中で挫折するケースも多い。それでも彼らが自分を生産労働者として認めることができないのは、労働者階層が、かつての文化的・政治的自立性や階層としての象徴的な価値を失い、若者たちに労働者としての誇りの基盤を提供することができなくなったからだ。どちらにも行くことのできない彼らは、「選択しないこと」を選択してゆくことになる。

 

キーワード:職業移行問題、フランス職業高校、社会階層構造の再生産、学歴資格のインフレ、労働者としての誇り

 

0.導入

 本稿では、フランスにおける職業高校生の就業における問題点を検討するが、まず学業から職業への「移行問題」と称されるこうした問題の背景を確認しておこう。

 Pinçon-Charlot (1998)が指摘するように、経済・文化資本の「遺産相続」がごく「自然に」おこなわれる「上流社会」には移行問題は存在しない。同様に、「国家貴族」を構成する学歴エリートたちに関連してこの問題が語られることもない。一般に、移行問題は、職業ポストとそれを通した社会的地位の獲得に多かれ少なかれ不安・不満を抱える人々にとってしか問題化しないし、職業ポストの獲得により大きな困難を伴う人々にとってより深刻に問題化する。一般的な雇用不安が、学歴競争をひき起こしている状況では、この競争の敗者にこそ移行問題が集中的に出現する。

 移行問題は、学業終了後の就業の可能性だけでなく、その職業に対する当事者の姿勢(モチベーション)の問題でもある。雇用の可能性が学歴の低い者にも開かれ、当事者がその職業を受容している限り、移行問題は生じない。たとえば、中卒者が「金の卵」と言われて「集団就職」していた高度成長期の日本では、移行問題が語られることはなかった。しかし、産業構造の変化やそれにともなう失業等の雇用の不安定化が生じ、さらに教育大衆化によって高学歴への競争が一般化すると、当事者が保持する一定水準の学歴と、彼が望む職業が要求する学歴とがかならずしも対応しなくなる。教育課程を終えて職業世界に出てゆくことは、こうした者にとっては望まない職業を受け入れることを意味する。それは、自立した一市民としての未来への出発ではなく、意にそわない現実に投げ込まれる青年期の挫折であり、社会的脱落の経験となる。

 移行問題がこのように学歴競争の敗者に集約的に現れるとすれば、この問題を研究することは、彼らの学校教育における困難と就業における困難とを総合的にとらえることを意味する。また、「学力」が社会階層的な位置づけに対応していることを考慮すれば、この問題の検討は、教育制度による社会構造の再生産の現状をみることにもつながる。

 以上のような観点から、以下の諸節でフランスにおける職業高校生の職業移行問題についてより具体的に検討する。

 職業高校が、中学校における成績不振によって長期の進学コースに進むことのできなかった生徒の受け皿となっており、そうした生徒の多くが庶民階層出身者であることは、以前から指摘されてきた(藤井1997Agulhon 2000)。また、職業高校卒業後に想定された仕事が、授与される資格の性格からいっても生産労働者や事務系労働者であることを考慮すれば、職業高校が階層構造を「再生産」する社会的機能を担っていることも否めない。さらに、高学歴化と雇用不安を背景にして職業高校生の卒業後の就業の困難もよく知られている。以下の第1節と第2節においてまずこうした点をより詳しく検討する。第1節では職業高校生たちの学校教育的性格と社会階層的性格の複合の状況を、第2節では彼らの卒業後の就業状況を検討する。これらの節では、職業高校と見習い訓練生で構成される職業教育課程全体をまとめて扱う。両者に共通した性格が認められるからである。むろん、これら二つの職業教育課程には重要な差異もあるが、その点は第6節で検討する。この検討をとおして、職業高校生たちの状況をいっそう細かく性格づけることができる。

 第3節では、職業高校生たちの置かれた状況を、教育大衆化と生産労働者の世界の変容とに関連づけて記述する。職業高校の学歴が用意する生産労働者としての職業生活も、学歴競争から脱落しつつある自分の状況も、ともに受け入れることができない彼らは、どちらにも行けない二重拘束の状態におかれている。そうした状況からの抜け道として、多くの職業高校生たちは、伝統的な短期の職業資格以上の資格を求めて、職業バカロレアまで進むようになった。しかし、第4節で検証するように、この新しい職業資格も彼らを新たなジレンマに追い込んでいる。第5節では、職業高校における男女差の検討をとおして、庶民階層の女子が、社会階層とジェンダーの両方から由来する不利益をこうむっている状況を指摘する。第6節では、見習い訓練生の状況を、職業高校生の状況と比較対照しながら検討する。最後に第7節では、職業高校の生徒たちの行きづまりの状況が、学校教育的・社会階層的条件に加えて人種差別という要因にもさらされる移民労働者の子どもたちに集約的に現れている様子を検討する。全体をとおして、職業高校生が置かれている社会状況を、教育大衆化という学校制度の側面および労働者の雇用・労働条件の変容という職業世界の側面の両方に注視して多面的に記述し、彼らが陥っているいくつものジレンマが生ずる構造をみていきたい。

 

1.職業高校生の社会階層的・学校教育的特徴

職業高校を含む後期中等教育の職業課程(seconde cycle professionnel)に在籍する生徒は決して少なくない。教育統計年鑑(Repères 2013:p.97)によれば、2012年にこの過程には657,540人が在籍しており、これは普通・技術課程(cycle général et technologique (1,452,155を加えた後期中等教育在籍者全体の31に上る(表1参照)(1)

教育統計年鑑Repère 2013 :p.101によれば、2012年新学期時点で後期中等教育の職業課程に在籍する者のうち、生産労働者層出身者は、35.8%に及ぶ。この階層の生徒が中等教育在籍者全体に占める割合が25.9%であることを考えると、彼らがとりわけ職業課程に進んでいることがわかる。ちなみに、事務系労働者、中間職出身者の職業課程在籍者の比率は、これらの層が中等教育全生徒に占める割合とほぼ同じであるが、上級管理職・知識職出身者に関しては、職業課程在籍者比率(6.6%)はこの階層が全体に占める割合(18.5%)を大きく下回っている。こうした数値は、社会の階層構造を「再生産」している教育システムの機能が、後期中等教育の職業課程において顕在化している、という解釈を許す(表2参照)。

 Palheta (2012 : 44)によれば、小・中学校の段階から、生徒たちは(1)特別クラスへ配置、(2)落第、(3)中学第4学年(第3級)時の進路指導というプロセスを通して職業課程に方向づけられている。要するに学校教育的卓越性の基準からみて「学力不足」とみなされた者たちが職業課程に配置される仕組みができあがっている。学校教育的卓越性や学校文化への親和性に、生徒の出身階層が深く関係しているという周知の事実を考慮すれば、職業課程生徒の社会階層的性格と学校教育的性格の組合せも理解される。職業課程がしばしば“relégation(島流し・流刑)”という社会的排除の同義語によって指示されるのも、この事実を反映している。

 職業課程への生徒の配置の実際を、Palheta (2012)にそってみてみよう。1995-2002年のパネル調査(2)を援用しつつ、Palheta (2012 :47-56)はまず補助教育を含む「(職業参入に向けた)特別クラス」(SEGPA, 3e et 4e technologiques, 4e aide et soutien, 3e d’insertion)と職業課程との密接な関係を指摘する。中学校の学年すべてを普通クラスだけで過ごした生徒では、職業課程(CAPBEP課程)に進級する者は、33.6%に過ぎないのに、同時期に一時的であれ特別クラスを経験した生徒では、この比率が77.7%にも及ぶ(残りの22.3%のうち多くは教育課程から脱落したと思われる)。特別クラスの生徒には、はっきりした階層性が観察される。同じパネル調査の対象となった生徒をもとに、この特別クラスの階層構成をみてみると、その4分の3が両親とも庶民階層出身の生徒で占められている。これに庶民階層+中間階層の両親の層を加えると、その比率は9割にまで上がる。一方、普通クラスでは両親とも庶民階層の生徒は4割強にすぎない。特別クラスを経験する生徒は、全体の13.3%にすぎず、とくにもっとも恵まれた階層に属する生徒ではわずか0.8%であるのに対して、庶民階層出身の生徒ではこの比率が20%をこえる(男子では、25.9%、非技能生産労働者や無職層の子どもでは27.3%まで上昇する)。Palheta (2012 :50)は、恵まれた階層の生徒に対して、庶民階層の生徒が特別クラスに入る確率は5.98倍にのぼると計算している。こうした特別クラスから、普通課程・技術課程の高校への進学率がわずか0.4%に過ぎないことを考えると、これらのクラスが職業課程への助走路を形成していることがわかる。

 落第に関しても、社会階層間の格差が観察される。両親の少なくとも一人が庶民階層出身である生徒の中学における落第経験率は29.8%であるのに対して、恵まれた階層の生徒では、その比率は18.1%にとどまる。また、落第が生徒の将来の教育展開に及ぼす影響も異なっている。中学時の落第経験者が高校の普通課程に進学する比率は、恵まれた階層では60%にも及ぶのに対して、庶民階層では21.6%にすぎない。反対に、こうした生徒が職業課程に進む比率は、恵まれた階層=28.7%、庶民階層=61.1%と逆転する。落第と職業課程への配置の関係は、職業課程生徒の年齢に反映している。教育統計年鑑(Repère 2013, p.109; p.117)によれば、2012年新学期の時点で、17歳以上の生徒は、普通・技術課程の高校1年(2nd)では2.3%にすぎないのに対して、同年齢層の生徒は職業課程の1年生では14%、CAP課程の1年生では23%にも及んでいる。落第は、社会階層によって異なった意味づけを持っている。庶民階層にとって落第は、高等教育への道を閉ざし、職業課程への「島流し」の第一歩となるのに対して(3)、恵まれた階層は、それを高等教育へつらなる長期課程への復帰の手段として用いる。中学から高校への移行期にあたる中学第4学年(第3級)時に、この階層の落第が集中することからもこうした差異は確認される。中学で落第する者のうち、第4学年次に落第する者の比率は、庶民階層で17%、中間階層で26.7%であるのに対して、恵まれた階層では39.6%にも及ぶのだが、それは、恵まれた階層の生徒にとって、この学年での落第が高校普通課程の1年目(第2級)への進学の可能性を格段に高めるためだ。

 職業課程への配置と生徒の社会階層的特徴との密接な関係をよく示している事実に、単線型中等教育の最終段階である中学第4学年(第3級)時おける進路指導・決定の問題がある。Palheta (2012 :62-71)は、上記と同じパネル調査に基づいてこの問題を検討している。まず、この進路決定のさいに、中学第1学年(第6級)時において成績が良好でない生徒のうち、より下位の社会階層に属する者は上位の社会階層に属する者よりも、成績が同条件であっても、ずっと高い頻度で職業課程に進路指導される、という事実がある。中学第1学年時の数学の共通テストにおいて、平均点以下を取った生徒のうち、もっとも恵まれた階層に属する生徒の13.7%が職業課程に進んだのに対して、庶民階層では、58.7%もの生徒が職業課程に進んでいる。中等教育の早い時期に生じた学習困難は、階層によって異なった働きをする。庶民階層の生徒ではこうした学習の遅れを中学校の間に埋めることが極めて困難なのである。中学校の教育課程を通してこうした学力格差が拡大することを背景に、中学校最終学年における進路決定が社会階層間の格差をより広げる方向に作用する。さらに、後期中等教育の普通課程・職業課程への振り分けが必ずしも生徒の成績に対応するわけではないという事実もある。周知のように、社会階層が上昇するほど、高等教育につながる普通課程への進路希望が強くなる。たとえば、成績最下位層(4)では、職業課程への進学を希望するのが、恵まれた階層では54.4%であるのに対して、庶民階層ではそれが90.1%にもなる。この差異的傾向は、生徒の成績が上昇しても変わることがない。たとえば、成績が12.1-14点(20点満点)の層でも、庶民階層では19.3%の生徒が職業課程への進学を希望するが、この比率は恵まれた階層では2.4%に過ぎない。庶民階層は、こうして進学コースから自主的に自己排除してゆく傾向をもつが、それは、Bourdieu(1974)が指摘したメカニズムに基づく。自分が属する階層に許される未来の可能性は、客観的に観察される。中学生の場合、それは統計資料などの形はとらなくとも、親兄弟や親戚、先輩たちの学業・職業生活を観察することから得られる。とりわけ、進学コースに進んだ年長者たちが階層的な条件に由来する学力不足から、普通課程で思うような成果を得られなかったという経験も共有している。こうした客観的条件が、生徒たちが主体的に抱く未来への期待を制限し、彼らの行動を規制する。その結果、彼らの未来は、客観的に観察された階層的条件にそうものとなる。学校側の進路決定の機関である学級委員会(conseil de classe)による進路の採択も、生徒たちの進路希望にみられる階層間格差を是正する方向には作用せず、かえってそれを追認する結果となっている。成績の中間層(10.1-12点)では、この委員会は恵まれた階層の生徒のわずか8.9%を職業課程(CAP/BEP課程)に配置するのに対して、この比率は、中間階層では24.3%、庶民階層では40.4%にもなる。学級委員会はまた、落第に関しても社会階層ごとに異なった対応をしている。上でみたように、中学校最終学年における落第は、恵まれた階層では普通課程への進学を確保する手段として用いられている。そうした戦略を追認するかのように、委員会は恵まれた階層の生徒に多く落第を採択する。成績の下位層(8点未満)でさえ、恵まれた階層では24.8%の生徒が落第をすすめられる。この成績層の庶民階層ではこの比率は、3.9%に過ぎない(5)

 

2.職業高校生の資格取得後の状況

Céreq(資格調査研究所)の調査« Génération 98 à 10 ans »によれば、1998年に職業課程を終えた者のうち3分の210年後には生産労働者(ouvrier)または事務系労働者(employé)であり、14.8は失業状態に置かれている。その一方で、彼らのうちで上級管理職・知識職につくものは1.3%にすぎず、中間職でも11.4%にとどまっている(Palheta 2012:41)。これは、同年に高等教育を終えた者がその10年後に、生産労働者および事務系労働者=23.4%、失業=6.5%、上級管理職・知識職=27%、中間職=40%となっていることとはっきりとした対照をなす。同様のデータが、経済危機(リーマンショック)を経験した2007-10年の時期に関しても観察される。CéreqEnquête « Génération 2007 »2007年に教育課程から出た740,000人対象)によれば、2007年に短期の職業資格(CAP/BEP)を取得した者の2010年における失業率は24%に及ぶ。また、正規雇用についている者は54%にすぎず、高等教育修了者の正規雇用が70%ほどであるのに対して、著しく不利な立場に立たされている(Mazari, Z. et al. 2011)。

このように、職業課程を終えた生徒たちは、より高学歴の者たちに比べてより厳しい雇用状況に直面することになるが、彼らの就業状況と職業課程が与える資格との関係を以下で詳しく見てみよう。とりわけ注目されるのは、CAPBEPという短期課程(レベルV)の職業資格が、それが想定した技能生産労働者という職業カテゴリーに対応していない現実である。すでにPodevin et Viney (1991)によって、1980年代の状況として記述されたデータによれば、これらの資格を取得した者が、取得後6-7カ月の時点で技能生産労働者として職を得る比率は、1960年代以降つねに低下し続け、1988年にはCAP45%、BEP48%まで低下していた。

一般に、生産現場において非技能労働者が占める割合が年々低下し、1975年には二人に一人だったのが、80年代後半には三人に一人まで減少した事実を考慮すると、これらの資格の評価の下落がよりいっそう大きかったことが知られる(6)

この傾向は近年さらに強化されてきている。教育統計年鑑(Repère 2013, p.277)によれば、2013年に卒業後14年経過したCAP/BEP取得者のうち、技能生産労働者として働いているのは26%のみにとどまり、反対に、非技能生産労働者として働いているものは21%に及ぶ。注目すべきは、この非技能労働者の割合が、資格として「中学卒業証明もしくは資格なし」のカテゴリーの者たちがこの職種につく割合(25%)とそれほどの差がないことだ(表3参照)。

同様のことが、非技能事務系労働者の比率についても言える。CAP/BEP取得者でこの職につくものは24%であるのに対して、「中学卒業証明もしくは資格なし」の者では、この比率は28%となる。一方、これら二つの学歴カテゴリーの者たちに対して、「バカロレア取得者」を対置すると、非技能生産労働者=12%、非技能事務系労働者=18%となり、事務系労働では格差がやや縮まっているとはいえ、バカロレアという資格が大きな境界となっていることが見てとれる。言いかえると、主に職業高校での勉学を通して取得される短期の職業資格は、「資格なし」のレベルに接近するほど評価が低いことがわかる。Palheta (2012162)も言うように、雇用者側にとっては、これらの資格が雇用の最低条件となってきているが、それも資格が保証する技術的な能力のためではなく、後期中等教育の資格取得まで進んだという事実から一般的な能力(とくに書記能力)が認められるという消極的なものにとどまる。レベルVの職業資格は、もはや義務教育修了の保障というレベルにまで格下げされてきていると言える(7)

 

3.生産現場の変容と教育大衆化による二重拘束

 職業高校生を取りまく環境は、同じ時期に進行した二つの大きな社会的変化によって決定的な影響を受けた。すなわち、教育大衆化と生産現場における労働のありかたの変容である。

 Chenu (1993)がつとに指摘したように、フランスの労働者が置かれた環境は、1980年代に大きな変容を遂げた。生産現場における自動化(ロボット化)・情報化によって非技能労働者が減少して、高資格の技術者・技術系管理職が増える一方で、商品流通にかかわる労働者は増加した。生産現場では、「トヨタ方式」に由来するノンストック生産方式の展開に合わせて、労働者は情報体系の中で自律的に行動する能力を求められた。すなわち、労働者は製品および原材料の多様性、生産設備の状態等の変数に対応しつつ、自分で自分の労働時間の最大限の効率化をはかるよう自分の行動を再帰的に管理しなければならない。しかもこの多能性と自律性の要求は、生産過程の高速化、作業能率の高度化と一体になって進行した。こうした新しい働き方に適応するには、単に特定の技術を持っているだけではたりない。何よりも、経済状況を反映して刻々と変化する生産現場の要請に即応できる姿勢・心身の準備が要求される。1980年代半ばに創設された職業バカロレアも、このような新しいタイプの労働者を生産現場に送り出すことを目的にしていた。すなわち、生産の方針・方法に関して経営・管理部門と同一の思考法を身に着け、その多様な意向を現場に浸透させる「自律的な」労働者を作り出すことであった。

 こうした生産現場の変化は、80年代なかばから90年代終わりにかけてプジョー社のソショー工場の労働者を丁寧に追跡したBeaud et Pialloux (1999=2012)の民族誌的記述によってよくとらえられている。すなわち、この時代の生産現場では、上述した技術革新と新しい労働者モデルの導入によって、「栄光の30年」に代表される高度成長期をになった旧来の労働者像が急速に社会的評価を落としていった。組合運動を通して国家的な政治勢力の一翼を担った「労働者階級」というよりどころを、現場の労働者たちは失っていった。それとともに、彼らのきびしい労働の現実を支えていたさまざまな価値(仲間意識、相互扶助、管理への集合的反抗、言語的・行動的慣習、労働現場外の階層文化などの集団的・象徴的価値体系)も、労働者集団での有効性を失っていった。労働者間に、給与の差異化や担当部署の配置をめぐって「個人競争」が導入され、また、会社側の意向に沿った姿勢・態度・応接がこうした競争的評価の中に位置づけられるようになった。集団は、お互いを支えあうものではなく、お互いを監視かつ管理しあうものに変化した。その結果、「階層全体としての生活の改善と社会的上昇」という労働運動のプログラムは、個々の労働者にとって現実性のない過去の遺物となってしまった(8)しかも、会社が導入した個人競争が約束したはずの職場内での昇進は、ほとんどの場合、実現することなく終わった。非技能労働者にとっては、現在の自分の地位と生活状況から抜け出すために、実質的には、もはやどのような手段も残っていない。こうした状況はかつて「労働者のエリート」と呼ばれた技能労働者にとっても同じだった。技能労働者には、生産現場において非技能労働者にはない特権があった。彼らこそがポジティブな労働者像を体現していた。しかし、そうした特別な性格も、職業バカロレアを手にした会社協調型の新しいタイプの労働者の出現によって無意味なものに転落してしまった。

 このような変化は言うまでもなく、職業課程に在籍し、将来は生産現場で働くことを想定されている生徒たちに大きな影響を与えた。とくに、職業バカロレア保持した新しいタイプの労働者の出現によって昔日の栄光を失った熟練技能労働者こそ、6070年代にCAP等の短期の職業資格を取得した者たちだったことの意義は大きい。上でみたように、短期の職業資格所得者が技能労働者として雇用される割合は80年代の終わりころには5割を切っているのだが、たとえ技能労働者の地位を得たとしても、その仕事には将来の展望も、労働者としての集団的・象徴的価値も90年代の終わりにはもはや付随しなくなっていたのである。

 こうした状況を考慮すると、職業高校の生徒に、生産労働者となることへの拒否が広がっていることも理解される。Beaud et Pialloux (1999=2012)の第2部は、プジョー工場所在地域の職業高校での生徒・教師たちを調査しているが、その中で、生徒たちが自分たちを生産労働者の枠にはめる現実を、様々な象徴的方法を用いて打ち消そうとしている様子が活写されている。こうした拒否は、彼らが主に庶民階層の出身であることを考慮すれば、親の職業を否定するという深刻な世代間断絶を生み、それが労働者の「階級文化」の継承を不可能にするゆえに、よりいっそう親の世代の労働者としてのアイデンティテーを揺るがす結果となる。さらに、生産労働への拒否は、後述するように、移民の親を持つ生徒においてとくに激しさを増す。Beaud et Pialloux (1999=2012 :444-449)2012年版の後記( Beaud et Pialloux 2002の再録)で記述された移民系の職業高校生の発言や、Palheta (2012 :289)が示した移民系の生徒が持つ「親の職業の拒否」の傾向からも、彼らが内在化している「生産労働者」への根深い拒絶が見てとれる。

 庶民階層の若者たちがもつ生産労働への拒否は、労働者が社会階層としての社会的地位を失いつつあった80年代に進行した教育大衆化とも密接な関係がある。「80%の生徒をバカロレア段階へ」というスローガンで知られるこの教育改革を受けて、普通課程・技術課程への進学は、80年から90年の10年間で46.8万人ほど増加したが、その一方、職業課程への進学は7.6万人ほど減少した(表4.参照)。

中学最終学年(第3級)修了者に対する比率でみると、前者は80年=61.15%、90年=70.72%と10%近い増加であるのに対して、後者は80年の27.07%から、90年の25.02%と若干減少している(藤井1997188)。こうした教育大衆化の動きは、普通・技術課程への進学に向けた選抜を緩和した。庶民階層の子どもたちにも高等教育につながる普通・技術課程への進学の可能性が生じてきたのである。生産労働者となることを拒否する者たちにとって、進学コースへの参入は一つの選択肢となった。さらに、80年代に進行した失業の増大は若年者の雇用をも脅かしたから、庶民階層にとってもバカロレア以上の学歴への志向が強まった。

 庶民階層をも巻き込んだこの教育大衆化は、彼らに二つの帰結をもたらした。第一に、普通・技術課程に進んでも経済・文化資本の欠如からそこでの学習内容についてゆくことができず、理系・文系・社会系などのコース分けや受験するバカロレアの種類を通して、結局は選別されることになる「内部における排除」(Bourdieu et Champagne 1992の発生である。こうした生徒にとって、普通・技術課程への進学は「選抜=排除の先送り」(Oeuvrard 1990)にすぎないこととなる。第二の帰結は、庶民階層の生徒のうちで、門戸が開かれた普通・技術課程に進学できない者のみが職業課程に進むという職業高校=「島流し」という図式が強化されたことである(Jellab 2008 : 54)。職業高校の生徒は自分たちが、普通科生徒に代表される「本当の」高校生ではないと感じている。学業成績が悪いという個人的な負い目が、今や職業高校生であるという社会集団的負い目によって二重化され、自分の価値を肯定的にとらえることができなくなった彼らは、勉学においても、それ以外の分野(たとえばスポーツ)においても現状をこえるための向上心をなくしてしまっている。どんなものであれ、競争状況に彼らはもはや耐えられないのである(Beaud et Pialloux 1999=2012 :195-200)。その一方で、生産労働者となることを拒否している彼らは、職業高校が与えるCAP/BEP等の短期資格を手にして労働市場に参入しようとは思っていない。これらの短期資格が失業対策にはならない(第2節参照)という事実もあいまって、彼らは「通常コース(voie normale)」と称される長期教育課程に復帰して、職業バカロレアあるいはそれ以上の学歴を身につけたいと思っている。ここに職業高校生が直面する大きなジレンマ、職業生活への移行にともなう困難を約束するジレンマがある。職業高校では、卒業後、その分野での就労を前提にして、特定分野の職業教育をほどこすが、生徒にはそれが約束する労働者としての未来への根強い拒否がある。生徒は「本当の」高校生のように、長期の高等教育への参入をもくろんでいるが、それが必要とする学力にも、意欲・向上心・自信にも不足がある。職業高校に来ているということが、すでに学校教育的資質に欠けているという宣告を受け、かつ学歴上昇への意欲を自分から自己制限してきた結果であった(第1節参照)。生徒たちは、労働者として社会に位置づけられるという受け入れられない現実からのがれるために、高学歴の追及という合理性も可能性も少ない「正面突破(fuite en avant)」作戦に追いこまれていく(9)

 生産労働の拒否と学歴追求の可能性の温存、という職業高校生のダブルバインド状況は、彼らがしだいに多く第3次産業(サービス)分野の専門課程を選択するという事実にもよく表れている。この選択は、生徒たちには、とりあえず生産労働者としての未来をまぬかれる可能性を残すかのようにうつる。Jellab(2008 :119)によれば、職業高校でサービス分野を専門とする生徒数(399,575)は、2003年に工業分野を専門とする生徒(301,066)を上回った。また、伝統的に工業分野に多かった男子生徒もしだいにサービス分野に移り、その割合もおよそ30%となった。とくに、販売、会計・経営の分野では、男子比率が50-60%にまで上がってきている。これらの分野が上位の学歴への接近を容易にするとみなされていることが、その理由の一部だが、しかし、こうした傾向は職業高校生たちがかかえる困難をいっそう深めることになる。サービス分野の学習は、工業分野に比べて書記能力に依存する度合いが高く、その意味でずっと学校教育的であり、中学段階でこうした学習体制から排除され、脱落した生徒たちにとっては、負担が大きい。また、サービス分野が想定する資質は、庶民階層の文化とは異質な要素が多く、庶民階層出身者が多い職業高校生徒にとっては、学習以前のハンディキャップとなっている。さらに、サービス分野の短期資格は、普通課程バカロレアや高等教育資格と最も競合関係に入りやすい。情報操作にかかわる仕事では、基本的に言語能力(国語力)と情報機器の操作能力が求められるが、こうした点では、高校普課程や高等教育の修了者が勝っているのが現実だ。情報操作を主とするサービス分野、すなわち第3次産業の管理・経営部門は、普通・高等教育修了者で、自分の資格にふさわしい職を得られなかった者たちの受け皿となっており、それだけこの分野の短期資格取得者がしめ出されることになるのだ(Palheta 2012 :161)。「バカロレア後2年」の資格を持つものでさえ、(産業・事務)労働者となる者の比率は、経理で76%、秘書で80%、旅行業で87%にもなり、また、失業率も15%をこえてこのレベルの資格では最高となっている(Palheta 2012 : 165)。実際、Arrighi et Sulzer (2012 :5)によれば、2004年と2007年に学校を終えた者の平均で、CAP/BEP取得後3年の時点での失業率は、商業・販売で29%、会計・経営で33%にも達しており、この資格取得者の失業率でもっとも高いものに属する(もっとも低いものは、金属構造の11%)。

 短期の職業資格の価値が一般的に下落したうえに、サービス分野での上位資格による圧迫も作用した状態で、なお、失業も産業労働者の仕事も避けたいとすると、短期の職業課程の後も学歴を追及するという選択肢があらわれる。実際、2000-2008年の間の短期課程(BEP)在籍者と、その上位の職業バカロレア課程の在籍者を比べてみると、前者は44.3万人から32.5万人に減少しているのに対して、後者は17.5万人から26.1万人に大幅に増加している(教育統計年鑑2009版(Repères 2009):p.101)。しかしながら、職業バカロレアはその取得者を失業から守り、また彼らに単なる労働者以上の地位を約束するものではまったくない。次節では、職業バカロレアを取得した若者たちの現実とその問題点をより詳しく検討する。

 

4.職業バカロレア

 CAP/BEPという短期の職業資格の労働市場での価値の下落を受けて、職業高校生たちは、これらの資格を取った後も、さらに学業を続けるという選択肢を取るようになった。その受け皿となったのが、1985年創設された「職業バカロレア(Bac pro)」である。実際、CAP/BEP取得者は1975/76年には90%が就職していたが、この比率は1995/96年には40%まで下がる。1996年に、BEPを取得したあと職業バカロレア課程に進んだ生徒は、全取得者の3分の2までおよんだ。こうした学歴追求の傾向は、各教育課程卒業者の比率に反映している。すなわち、CAP/BEP取得で教育課程を終える者と職業バカロレアまで取得する者の比率は1990年に21であったが、1995年にはそれが43になるまで、職業バカロレア取得者が相対的に増加した(Eckert 1999 :233-34)。この傾向は、それ以後も継続し、90年代の終わりには「BEP取得者の80%が職業バカロレア課程に進むことが可能となった(Beaud et Pialloux 1999=2012 : 201)」。BEPを職業バカロレア課程の中間資格とした近年の制度改革は、こうした傾向を追認したものと言える。

 2007年に教育課程を終えた若者の3年後の就業状況を調べたMazari et al.(2011:283)によれば、職業バカロレア取得者の失業率(15%)は、「バカロレア後2年」の数値(9%)よりは高いものの、たしかにCAP/BEP取得者(24%)ほど深刻ではない。しかし、この平均値の内部に、就労分野ごとの大きな差異がかくれている。Arrighi et Sulzer (2012 :5)をみると、2004/2007年卒の職業バカロレア取得者の3年後の失業率は、土木、機械、電気、エネルギーなどの工業部門や運輸などでは9-14%であるのに対して、事務・サービス分野の失業率は、秘書で28%、商業・販売で20%、会計・経営で17%となり、前節でみたCAP/BEP取得者よりもいくらかは低いものの、非常に高い比率を示している。前節でみたように、これらの分野では、高等教育資格取得者からの圧迫をじかに受けるからである。

注:Arrighi et Sulzer (2012 :5)によると、これらの分野ではCAP/BEPと職業バカロレアとの失業率の差が極めて低い。それに対して、これら二つの資格の間で失業率が大きく改善する分野がある。CAP/BEPと職業バカロレアの失業率を以下の分野で対比させると、美容・理容・エステ(29%:6%)、服飾・繊維・皮革(36%:15%)、ホテル・観光(23%:7%)、農業・牧畜・林業(18%:6%)となり、これらの分野では職業バカロレアが職業参入に効果的な役割を果たしていることがわかると同時に、事務・サービス分野では、CAP/BEP取得者の行きづまり状況が職業バカロレアにももちこされているのが確認される(10)

 一方、失業率が比較的低い工業部門の職業バカロレア取得者たちもまた、順調な職業生活を始められるわけではない。彼らが労働現場で直面する現実は、彼らが教育を通して形成した職業生活のヴィジョンを裏切るものであり、かつ、労働環境が大きく変容する時代に職場に入った彼らは、変化にともなう葛藤のただ中で、対立する人間集団とその価値観の間で引き裂かれた立場におかれることになった。非常にしばしば労働者家庭の出身であるこれらのバカロレア取得者にとって、それは自分の親たちを否認するというつらい世代間対立の経験ともなった。

 前節でみたように、職業バカロレアが想定する人材は、多能性と自律性に富み、会社の生産活動により自発的かつ柔軟に対応する新しいタイプの労働力提供者であった。トヨタ方式による生産現場の合理化−ノンストック生産方式、機械使用率の向上、不良品ゼロ、経費と時間の節約に向けた切れ目のない努力−に貢献し、生産過程の「最適化」を図るためには、与えられたポストをこなすだけではなく、自動化・情報化した生産工程全体を見渡して管理する能力を身につける必要がある。それには、現場の情報を管理伝達し、管理・経営部門と「対話」する能力も必要となり、企業の組織と経営に関する知識も不可欠となる。さらに、新しい労働者は、原材料や設備について「コスト意識」を持ち、市場の要求の変動に対応して生産過程を調整しつつ、生産時間の削減・生産性の向上に注意をはらうことも求められる。こうして企業の経営的観点を内面化した彼らは、企業目的への労働者の主体的なかかわりを要求する企業と「一体化」している点で、彼らの親の世代にあたる旧来の労働者−非技能工やCAP/BEPなどの短期資格を持った労働者−と決定的に異なっている。彼らは、旧来の労働者と現場監督との中間の位置に置かれ、その職務も、単純な「機械的」労働を超えた関わりが要請されることになった(Eckert 1999 :241-2)

 現場監督(技術者)と労働者の間の存在となった職業バカロレア取得者は、自分を技術者の「助手」ととらえ、自発的に仕事に取りくむとともに、技術的な問題にだけ自分の関心を集中させて、「組合」や「政治」などにかかわることがない。こうした傾向は、生産性追求の最先端に位置する職業高校の教員たちが、生徒たちに、労働者精神よりもむしろ技術者精神を教え込んでゆくからだ。「新しい労働者」のこうした態度は、現場ではしばしば古い労働者との間に軋轢を生む。Beaud (1996 :27-29)はこうした新旧労働者の対立を、職業バカロレア課程の研修生が企業内で出会う経験を通して明らかにしている。

 合理的生産方式の思考・方法をしっかりと身につけた職業バカロレア取得者や研修生にとって、労働現場の経験は、自分が親世代の労働者とは異なった存在であるという事実を確認し、彼らが教育を通して体得していた「労働者からの断絶」をいっそう深める機会となる。「カイゼン」をキーワードとし、「研究し、予測し、新しいものを生みだす多能性と自発性を持つことを求められ」(Beaud 1996 :26)てきた彼らは、現場監督と労働者が、長年にわたる「妥協」を通して作りあげた工場内での慣習に拘束されず、「伝統」が支配している現場に革新と改善を持ち込む。それは、本人たちにとっては、習い覚えたトヨタ方式による生産現場の合理化を工場内で実践することだが、会社はそれを、古い労働者たちが保持していた労働強化への抵抗をくじく方策として利用できる。実際、リストラが進行している工場に彼らが入ると、彼らはしばしばリストラの先兵となる。彼らがもたらした「カイゼン」は経営側や教員側からは評価されるが、労働者側からは、当然のことながら、きらわれることになる。

 合理化と生産性の論理を、教育を通して文字通りに体得した職業バカロレア取得者は、彼らの職業実践を通して、親世代の労働者のよりどころであった労働現場における抵抗の文化の解体に手を貸す。親世代の労働者の価値・文化を引きつぐどころか、すでに衰退した労働者の世界に対して最終的な打撃を与えることになるのである。そういう意味で彼らは「トロイの木馬」にも例えられる。彼らは労働者を「監督」する立場におかれ、労働者の現場での行動を「スパイ」することさえも要請されることがある。こうして労働現場は、彼らにとって葛藤に満ちた空間となり、彼らに工場労働を忌避させる一つの要因ともなる。

 企業目的に関して旧来の労働者とは異なった態度・姿勢をもち、自動化・情報化された生産現場で自律的に最適化をはかる人材となるように教育を受けてきた職業バカロレア取得者たちは、上でみたように実際に新しい労働環境に適応し、労働力の世代交代に大いに貢献したにもかかわらず、彼らの資格にふさわしい職業的・社会的地位を与えられてはいない。Veneau et Mouy (1995 :91)は、職業バカロレア創設から10年ほどの時点で、工業部門の職業バカロレア取得者が、調査対象の生産現場において、この資格が想定する現場の「技術職」についている例はまったくなく、すべてが技能労働者として働いていることを確認している。また、Eckert (1999 :235)によれば、1990年に機械・電気等の工業部門の職業バカロレアをとって就職した者のうち、2年後には3分の2近く(64.7%)が技能労働者として就業し、技術者となっている者は2.9%しかいなかった。一方、非技能労働者となっている者も17.5%おり、結果として、労働者となっている職業バカロレア取得者は80%を超えていた。すなわち、彼らの大部分は、資格と職種の対応を決めた基準よりも低い職種、それまではCAP/BEPの保持者がついていた仕事についているのである(11)

 職業バカロレア取得者は、現場での職務に関しても、彼らが受けた教育が想定したものとは異なった実践を強いられる。上でみたように、理論上は、彼らには最適化に向けた生産過程への積極的な関与が求められた。しかしながら、現場では、彼らの生産過程への関与は限定的である。たとえば、自動工作機のプログラミングなどでは、彼らは末端の部分にしか関与せず、中心的な役割は、BTSなどの(短期の)高等教育修了者にゆだねられている。彼らはまた、製品の品質の管理ばかりでなく、設備の運転状況の管理も担うという多能性を要求されるが、彼らの役割は現場での修理に限定され、設備全体の改善は、彼らを含む現場の労働者からの情報を受けた技術職が受け持っている。こうした傾向は、特に大量生産の現場で顕著である。すなわち、Veneau et Mouy (1995 :94)が指摘するように、生産過程の自動化・情報化は、むしろそれ以前に存在していた職能の階層構造を強化する結果に終わっており、職業バカロレア取得者には、多くの点で旧来の労働者と同様の仕事が与えられているのである。

 単なる作業労働以上の仕事を通して、技術的かつ主体的に企業活動とかかわりを持つように教育されてきた職業バカロレア取得者たちは、教えられたことを十分に仕事に生かすことができない。また、企業経営の論理を身につけ、精神的に会社と一体化しているにもかかわらず、彼らには技術職としての主体的な権限が与えられていない。彼らがかかえるこうした行きづまりは、彼らの来歴を考慮すると、いっそう深刻なものであることがわかる。

 上述したように、職業バカロレア取得者は、多く労働者階層の出身である。彼らは中等教育大衆化と職業バカロレアの創設によって、高卒(バカロレア)レベルまで到達できるという、親の世代には望めなかった学歴上昇の機会を与えられた。それは、労働者である親の仕事よりもよりよい仕事−技術職−につけるという階層上昇の希望を生みだした。それゆえ彼らは、その希望の具体化を約束すると思われる企業経営論理にしたがって行動することを受け入れる。親世代の労働者にとって、服従と屈辱の源泉であった経営論理を体現し、「あちら側」に行ってしまったこの新しい「高卒」労働者たちは、しかしながら、会社側からは依然として作業労働を主とする旧来の労働者と同様に扱われる。それでも、教育によって身につけた企業精神からも、階層上昇への期待からも、決して自分を労働者の一人としてみなすことができない彼らは、労働者とその階層文化に対して断固とした反発を示す。それは、約束された階層上昇の道を絶たれて不当に労働者の地位に置かれ、結局は親世代と同じ条件に引きもどされているという現状認識からいっそう激烈なものとならざるを得ない。(Eckert 1999 :245)。

 一方では、教育を通して身につけた企業精神と作業労働への忌避のために、親世代の労働者との断絶が決定的となり、また他方では、自分の資格に対応しない「労働者」という低い社会的地位に置かれている現状を打破するために、職業バカロレア取得者に残された道は、高等教育課程を経てより上位の資格を手にすることとなる。技術職は結局のところ高等教育の資格がなければ、可能性が少ないという現実−職業高校の時からわかっていた現実−を、彼らは労働の現場で思い知らされるのである。しかし、もともと短期職業資格課程の後、職業バカロレア課程に入ることは、普通・技術バカロレア課程に合流できなかった者たちの「次善の選択」であった。普通科目の教育よりも、職業教育を中心とする職業バカロレア課程の後で高等教育に進むのが決して容易でないことは、他の職業高校生の場合と同様である(12)

 

5.職業高校における男女差

 職業高校にかよう生徒は、一般に男子が多い。教育統計年鑑(Repères 2013:p.107)によれば、2012年度の職業高校生徒の女子比率は、2年課程のCAP43.0%、BEPを経由する職業バカロレア課程全体で43.6%となっている。女子生徒は、普通・技術課程への進学志向が強い。2012年の普通・技術科の高校1年(第2級)の女子比率は、教育統計年鑑(Repères 2013:p.117)から計算すると、53.8%となる。しかしこのことは、彼女たちが進学競争の勝者であるということを意味しない。というのも、普通・技術高校における専門別の男女比率をみると、女子は、高校3年(最終学年)において、文学系で圧倒的多数(79.2%)を占め、社会系でも大きく過半数を上回る(60.7%)が、高等教育への進学に関して最も有利とされている理系では45.5%と過半数を下回る(教育統計年鑑Repères 2013:p.115)。さらに統計による数値をみると、後期中等教育が社会的な性役割分担をはっきりと反映させていることがわかる。女子比率は技術科の工業系で6.5%と、極端に低いのに対して、医療・福祉系では91.9%となり、極端に高い。デザイン・芸術系でも同様に高い(75.0%)。化学系(56.5%)・商業系(54.6%)では、女子はいくらか男子を上回る程度となる。

 上の数値は、普通・技術課程への女子の進学が、男子よりも高学歴コースにうまくのっていることを意味するわけでもなく、また、伝統的な性役割の枠組みから彼女たちが自由になっているわけでもないという事実を非常によく示しているが、教育課程が性役割分担を強化し定着させる方向に働いているのは、職業高校でも同様である。職業高校では、生産系に占める女子の比率は11.5%にすぎず、しかも生産職のうちで女子が集中する分野は服飾(93.4%)やその関連分野に限られている。サービス系では女子比率は43.6%まで上昇するが、この分野でも伝統的に女性職とされている職種における女子の集中度は、「理容・美容・その他の個人向けサービス」=99.8%、「秘書」=94.4%、「医療・福祉」=92.9%を筆頭にきわめて高い(教育統計年鑑Repères 2013:p.113)。

 職業高校において、伝統的な性役割分担が強固に存続している一方で、伝統的女性職が不安定な雇用状況にさらされているという現実がある。Arrighi et al. (2012 : 5)によれば、CAP/BEP取得の3年後の失業率(2004年卒と2007年卒の平均)は、上にあげた女性職「理容・美容・その他の個人向けサービス」、「秘書」、「医療・福祉」でそれぞれ29%、36%、18%とたいへん高くなっている。そのほかにも、商業・経営で29-33%となり、他の伝統的男性職の失業率が15%を上回らないこととはっきりした対照をなしている。

 職業高校への女子の進出が少ないのは、性役割と雇用状況が組み合わされた上のような二重拘束の状況が作用していると考えられる。伝統的に女性職とされる分野では、将来の職業生活の見通しがたたないという雇用情勢がある一方で、男性職への進出は伝統的な性役割分担の規範によって困難なものとされているからである。普通・技術課程への進学が「選抜=排除の先送り」として機能する現実があるにもかかわらず、女子にはより切迫した排除を避けるためにこの進路に進まざるを得ない理由があるのである。

 職業教育におけるこのような二重拘束は、女子に男子以上に厳しい条件を課しているが、それは、職業教育の階層性が女子においていっそうきわだつという事実を説明する。1995年のパネル調査データを用いたPalheta (2012 :232)によれば、非常に恵まれた階層の子どもに対して、庶民階層の子どもが職業教育に入る確率の差は、男子では19.7倍なのに対して女子では28.7倍にもなる。この差異は、以下のように解釈できる。職業教育課程が、男子以上に女子にとっては避けるべきものであり、避けることができる者は避けている。社会階層的条件から、他の選択肢を持つ者は、男子以上にその選択肢を利用する。一方、階層差による教育の選択肢の欠如には、女子も男子と同じように拘束される。女子にとって職業教育過程が、男子よりもはっきりと忌避の対象となることが、この課程に入る女子の階層差をよりきわだったものにしているのである。さらに、1980年のパネルと1989年のパネルとを比較すると、いっそう興味深い事実が浮かび上がる。第2節でみたように、この期間は後期中等教育の大衆化が始まり、進行した時期にあたる。さて、この期間を通して職業教育に入る確率の階層間格差は、男子では減少する(80年=22.6倍、89年=15.5倍)のに、女子ではかえって増加する(80年=18.6倍、89年=22.3倍)。恵まれた階層の女子(そして庶民階層の男子)には、新たに与えられた学歴追求の機会を利用する手段があるのに、庶民階層の女子にはそれが欠けているのである。この事実は、庶民階層の女子が「教育の民主化」から取り残され、階層的ハンディとジェンダー的ハンディの両方を背負わされている現実を如実に示している。

 Palheta (2012 :237)によれば、女子は男子よりも見習い訓練に進む比率が低く、また、CAP課程よりもBEP課程により多く在籍する。さらに、女子は高学歴志向が強く、普通・技術バカロレアを取得して高等教育に進みたいと望んでいる者も多い。こうした事実は、女子が現実のハンディを乗りこえるためにより高い学歴資格に頼らざるを得ないという状況を反映しており、第7節でみる移民系の若者たちと多くの点で共通している。

 

6.職業高校生と見習い訓練生―生産労働に対する姿勢の違い

 職業高校生徒たちが直面している困難は、彼らの状況を見習い制度に基づく職業訓練生たちと較べてみることでいっそう輪郭をはっきりさせることができる(13)。第12節でみたように、見習い訓練に入る生徒は、大局的に見れば、社会階層的・学校教育的特徴に関して職業高校生と共通の特徴をもっている。見習い生も、おもに庶民階層から供給され、中学までの教育課程で、進学コースからはずされてきた生徒たちからなる。しかも、見習い生のほうが、職業高校に行く生徒よりもさらに学力が低く、小学校から落第を経験している者が多い。また、見習い生は、自営業・技能労働者の子どもに多い。職業訓練に入るためには、「受け入れ会社を見つける」ということが不可欠の条件となるのだが、親のネットワークによってこのハードルを超えるのが比較的容易だからだ。見習い生の比率には地域差があり、小さい市町村で多く、大都市で少ない(農村地帯では30%を超えるのに対して、パリでは14.9%)のも同じ条件の介在による。小さい市町村のほうが、雇用者を見つけるための社会的ネットワークが機能しやすく、また、中小企業が多く、行政が積極的に職業訓練を支援している地域では見習い生を受け入れる企業も多い。都市近郊に多いZEP(優先教育地域)の生徒に見習い生が少ないのも同じ理由による(Palheta 2012 :124-130)。

 見習いによる職業訓練と職業高校は、ともに長期の進学コースから外れた生徒の受け皿となっているが、学歴志向に関して両者は大きく異なっている。すなわち、親や本人の学歴重視傾向が強いほど職業高校を選び、職業訓練に行かない(Palheta 2012 :126)。したがって、社会階層の上位層ほど職業訓練に向かわなくなるのだが、この一般的傾向には後述するたいへん重要な例外がある。

 短期の職業資格のうち、見習い生は、特定職種へのより早期の就労を想定したCAP課程をとる傾向がある。見習い生の数は、2009-10年にかけて大幅に減少したが、CAPをめざす見習い生の数は、同時期にほとんど変化していない(17.7万人)という事実からも、近年の職業訓練への再評価の傾向とともに、見習い訓練とCAPの組合せの定着が見てとれる(14)

 これに対して職業高校生には、BEP課程の登録者が多い。2009年にこの資格が職業バカロレア課程に組み込まれる以前、2007年までは職業高校における各学年のBEP課程登録者は20万人を超えており、同時期のCAP課程登録者の5万人程度を大きく上回っている(教育統計年鑑Repère 2013, p.105参照)。上で指摘したように、職業訓練・CAPという組み合わせと職業高校・BEPという組み合わせは、より高い学歴への志向という点で対照的な性格を示す。Palheta (2012 :155)によれば、1995年の中学入学者のパネル調査からは、職業バカロレア(および他のレベルIV資格)まで進む生徒は、CAP課程からは15.4%、職業訓練からは22.3%であるのに対して、BEP課程からは41.2%、職業高校からは37.6%におよぶという(15)

 こうしてみてくると、職業高校生は、本人および親の学歴志向が高く、より長期の学歴につながるBEP課程に在籍して、職業バカロレアないしそれ以上の資格を視野に入れていることがわかる。しかし、ここにこそ職業高校生のおかれた大きな矛盾がある。そもそも彼らは中学校段階で、学校教育的な成果があがらないために職業高校に進路指導されていた。彼らが身に着けているハビトゥスもしばしば反学校的文化と親近性のあるものだった。職業訓練に向かう生徒が、もともと自分の居場所のなかった学校的な世界から「自然に」離れてゆくのとは対照的に、職業高校生は生産労働に対する拒否のために、自分を排除する学校制度にしがみついてゆくしかない。彼らはこうして不安定な宙づり状態におかれる。とりわけ、BEP課程が、上位の学歴につながるゆえに、国語・数学のような普通科目を重視し、彼らを中学校当時と同じ行きづまりにおいこみ、また、生産労働者への道から離れるために選択したサービス系の専門でもやはり普通科目における能力・成果が評価され、かつ、この分野での仕事が要求する態度・姿勢・行動様式の習得に、庶民階層の文化的背景が決して有利とはならない、という事態も生じる。

 これに対して、職業訓練の見習い生は職人的な仕事を含めた肉体労働に対してより肯定的な態度・姿勢をもち、学校教育の支配から離れることを積極的にとらえることができ、また、家族から広がる地域的・社会的ネットワークの中で自分の職業を位置づけることができる。見習い生がみせるこうした職業世界への前向きな適応(むろんそれは「必然−自発転換(nécessité vertu)」(Bourdieu 1980)の表れなのであるが)に対して、著しい対照をみせるのが、移民労働者の子どもたちの職業に対する姿勢である。それは彼らが置かれた現実と密接に結びついているが、同時に職業高校生のおかれたジレンマを集約的に表現している。

 

7.職業高校における移民労働者の子どもたち

 一般に、移民系の子どもたちには職業訓練とCAPを避ける傾向があり(16)、かつ、職業高校でサービス業部門のBEPの課程に在籍することが多い。このことは、彼らの学歴上昇志向を示唆しているが、実際、パネル調査の2002年のアンケートによれば、父親が外国生まれの生徒の73.5%が高等教育への進学を望んでおり、「土着」のフランス人の生徒の61.8%を上回る。さらに、マグレブ系や他のアフリカ系では、「バカロレア後2年」までの学歴を望む者が22.1%および34.1%となり、土着フランス人の12.8%を大きく上回る(17)。この高学歴志向の移民系生徒たちの多くが、中学最終学年での進路指導に大きな不満を持っており、その比率は父親がフランス生まれの生徒をおよそ10%近く上回る。学力に基づく制度的な選別を、彼らは職業高校進学後も受け入れておらず、したがって、あらたな職業生活の設計に進むこともできない。その背景として大きな意味を持つと考えられるのが、自分の親の職業に対する拒否である。同じパネル調査のアンケートでは、「絶対に親のようになりたくない」と答えた移民系の生徒は特に男子(42.4%)で土着フランス人(27.5%)を大きく上回っているが、これは、移民労働者として、しばしば失業も体験しながら生きてきた親たちの生存条件のきびしさを、彼らが身をもって知っていることから説明される(Palheta 2012 :287-289)。

 親の世代の移民労働者としての過酷な生存条件の中には、人種差別もある。移民系の生徒たちが置かれた状況にも人種差別は大きな影を落としている。職業訓練に入る移民系の生徒が少ないということも、自分を訓練生として受け入れる雇用者を見つける過程で彼らが人種的ハンディを負っていることと関係している。彼らの高学歴志向も、人種差別と無縁ではない。同じレベルの資格でも、土着のフランス人より就職が不利であることを彼らは経験的に知っている。したがって、より高い資格、いわば差別をこえて有効である学歴資格が必要となる(18)。そして、高学歴への志向が強いほど、即時性の現実的職業訓練には身が入らないことになる。したがって、彼らは、肉体労働者として早期に職業生活を開始する見習い生に対して、自分たちをはっきりと区別する。この点で象徴的なのが、見習い生が受けとる報酬に対する評価の違いである。見習い生にとって、この報酬は社会的自立の象徴であり、したがって金額の多寡にかかわらず大きなモチベーションとなる。これに対して、移民系の職業高校生にとっては、それはわずかな金銭できつい労働に縛りつけられるという屈辱的な服従を意味する(Palheta 2012 :189)。

 現場の肉体労働者という職業・社会的地位を断固として拒否しながら、それを避けるための学歴上昇が要求する学力等の資源を持たない移民系の職業高校生の将来への見通しは、たとえば、医者になるとかプロスポーツ選手になるとかいうように、しばしば現実性・合理性に欠けた夢想的な性格を持つ。そして、この「夢」が反転して職業訓練教育をいっそう低く見るという悪循環をもたらす。中学校までの学校教育的成果の低さゆえに、学校制度から高学歴への道をいったん断たれているにもかかわらず、彼らはその現実を見きわめて、方向転換することができない。職業高校(そしてBEP)の選択は、「選ばないことを選ぶ」という消極的・退行的なモラトリアムの選択となっている。したがって彼らが持つ将来の「夢」も、それに向けて準備・努力してゆく目標というより、職業高校の現実から離れたところに、自分が容認できる社会的自己像を求める逃避行為となっているのである(Palheta 2012 :306)。

 人種差別を背景にすると、勉学によって得た学業成績・資格がそれにふさわしい職業への道を開くというメリトクラシー原理に基づく対応関係が崩壊してしまう。それは、共和国の学校制度が掲げる普遍的価値・理想への信頼を完全に失わせ、学校的制度の中で、それを通して自己実現を図ろうとする努力や意欲を決定的にくじいてしまうのである。

 

8.結論

 ここまで職業高校の生徒たちの置かれた状況を、学歴社会の中での彼らの志向と、職業教育がもたらす現実的な帰結との不整合を分析しながら検討してきた。この不整合は、彼らの職業への移行が問題化する構造的要因をなしているが、その背景には1980年代からの中・高等教育大衆化の流れがある(Beaud 2002a)。

 教育大衆化という条件下では、庶民階層も学歴競争に無関心ではいられない。学歴資格が、安定した職業を得るためにしだいに不可欠な要素となったからだ。しかし、彼らの学歴競争への参入は、上層・中間階層家庭の戦略的教育投資行動とは異なり、階層転落をまぬがれるためには受け入れざるを得ない社会的制約であり、多くの場合、経済・文化資本の不足ゆえに成功の確信のない試行錯誤の連続となる(荒井2012)。学歴上昇の追求は庶民階層にとってリスクをともなうものである。高等教育に進んでも、目指した学歴資格に到達する前に脱落することも多いし(Beaud 2002a, 2002b)、また、仮にその資格を手にしたとしても、上述した移民系の生徒たちの例が典型的に示すように、それが希望した職業に直結するとも限らない。教育大衆化が、決して教育的不平等を解消することにはつながらず、かえって新たな社会階層的不平等を再生産することになったのは、Beaud (2002a)などをとおして今や周知のこととなっているが、この教育大衆化に対する庶民階層の両義的な関係が、職業高校生に集約的・先鋭的に現れている、と言える。彼らはしばしば行動において反学校的でありながら、将来に対する志向においては学歴という学校的な認証に決定的に依存している。学歴に関する主観的な希望と客観的な可能性とが痛々しいほどかい離しているのである。早期の職業見習い訓練に対する近年の再評価の傾向は、当事者自身が職業高校のこうした行きづまりの現実を、しだいに認識し始めていることを示している。

 職業高校は、生徒の社会階層的・学校教育的特徴からみても、卒業後の仕事の点からみても、社会階層構造の再生産という明らかな機能を持っている。しかしこうした性格は、再生産のプロセスの長期化・複雑化によってとらえにくいものになっている。多くの選択肢の様々な組み合わせが提供されることで、かえって生徒たちは現実的な選択をすることができなくなる。それは、選択を先送りしたい生徒たちのとって好都合でさえある。彼らは、生産労働者という職業高校生の客観的な進路を強く拒否しているからである。

 教育の大衆化と並行するように、労働者の世界は大きく変容した(Beaud et Pialloux 2002)。失業や不安定雇用のまん延のせいもあって、労働者の職業的価値は大きく下落した。しかし、伝統的には、労働者を中心とする庶民階層は、学校制度が下す否定的評価を押しかえす固有の文化的価値基準を持っていた。学力不足から職業課程に配置された若者にもよって立つべき基盤が存在していたのである。こうした反学校的文化が労働者の世界からも消滅したのは、教育の大衆化とともに進行した労働現場の変容による。分断された労働者は昇進や昇給をめぐる個人レベルの競争に投げ込まれ、個人として能力やパフォーマンスを評価されるようになり、労働の現場すら、いわば「学校化」したのである。労働者の固有の世界が、彼らが保持した文化・価値とともに存在しなくなったことの意義はきわめて大きい。集団としての労働者は社会の基層で、労使関係における最後の一線を守っていたと言える(19)。より上位の社会集団は、そのおかげで自分たちの労働においてより良い条件を享受できた。そうした下限の基準が失われ、雇用は不安定化し恣意的な条件下におかれることになった。そして、いま職業高校生たちが拒否する生産労働者の現実とは、こうして劣化した労働者の現実なのである。

 職業教育が、本来の機能を果たさず、危機的な状況にあるという認識が広く見られるが、それは、上の諸節でみてきた生徒たちの現状を考慮すれば当然のことと言える。しかし、この危機を脱するために何よりも必要なことは、生徒たちの客観的な進路である生産労働者や事務労働者の生存の条件(雇用の不安定性や賃金水準など)を改善し、同時に彼らの社会的地位を向上させること以外にはない(20)。教育界内部の論理に従って、問題を学校制度の水準に還元してしまうことは、本質から目をそらせることになる。同様に、職業教育に果たす学校の役割も再考を要する。職業資格の取得が学校教育の枠組みでなされることが、多くの生徒たちを行き詰まりに追い込んでいる。職業経験の評価など学校制度に依存しないキャリア形成の道を開き、長期の学歴形成をなしえなかった者にも社会的上昇の可能性が残される体制の構築が望まれる。

 職業教育をめぐる問題のもう一つの側面は、その再生産機能に関するものである。職業教育と社会階層との歴然とした相関は、教育大衆化(民主化)が本来求めた教育の機会均等が、大きくその理想から離れている現実を突きつけている。学校文化との親和性の少ない庶民階層の子どもたちが、十分に能力を発揮できるような制度や教育方法の改変・工夫が求められるのはこれまでとまったく変わらない。

 

*本論考は、20151130日に、大阪大学人間科学研究科において開催された日仏教育セミナー「庶民階層における教育の大衆化」における口頭発表に基づいている。当日セミナーに参加して、貴重なコメント・ご批判をいただいた園山大祐、ステファン・ボー、マチアス・ミエ、小澤浩明、ピエール・ペリエ、村上一基、森千香子、クロード・レヴィ=アルヴァレス、浪岡新太郎の諸氏に厚くお礼申し上げる。

(1)2008年および2010年の33より若干減少。Jellab (2008:116)2005年の数値として中等教育前期課程の後、職業課程に進む者の比率を34.72%としている。

(2)Panel d'élèves du second degré, recrutement 1995 - 1995-2011,  Direction de l'Évaluation, de la Prospective et de la Performance (DEPP) - Ministère de l'Éducation.

(3)落第が学校での学習に対する意欲をなくすきっかけになったことは多くの職業高校生の聞き取りからうかがわれる。これは、落第が、後述する庶民階層の「自己排除」の学校制度による公的な認証として機能していることを示唆している。

(4)Palheta (2012)は、中等教育修了証の判定に使われる中学第23学年時の平常点の平均を生徒の成績の指標に使っている。

(5)職業課程における専門の選択についても、生徒たちには多くの不満がある。専門について十分な情報を与えられず、抽象的かつ官僚的な専門名称からのみ判断して、職業高校に入学してから期待を裏切られたと感じる生徒、定員を埋めるために工業生産部門の専門に進路決定されたと感じている生徒もいる。

(6)Podevin et Viney 1991 :48は、男性のレベルVの資格保持者のうち、非技能労働者として働いている者の比率は、特定の生産分門では1989年に60%を超えると指摘している。また、若年のCAP/BEP保持者が技能労働者として就職できない事実を反映して、技能労働者全体に占めるこれらの資格保持者の割合も、1990年以後しだいに減少してゆくことになる(Eckert 1999 :231)。

(7)ただし、「資格なし」の者には失業が多いことに注意する必要がある。Arrighi (2012)によれば、2010年における失業率は、「資格なし」で41%、CAP/BEP等のレベルV職業資格取得者で24%と大きな開きがある。ちなみに、バカロレアレベルでは13%とレベルVのさらに半分ほどとなる。

(8)80年代をとおして大幅に増大した失業問題が、経営側が競争原理を導入するのを助けたことは言うまでもない。また、時に「裏切り」とも述定される80年代の革新政権の変質も、企業の労働マネージメントの「自由主義化」を助長したし、さらにソビエト連邦の解体による社会主義的理想の瓦解も、労働者の集団としての固有の価値観を動揺させ、社会変革の意志をくじくことになった。

(9)職業高校生徒が陥ったダブルバインド状況は、当然のことながら教育現場でも観察される。Jellab(2008180)によれば、彼らはしばしば、職業教育の教師からは「いい労働者になれない」と言われる一方で、一般科目の教員からは「学習意欲に欠ける」と言われることになる。

(10)Arrighi et Sulzer (2012 :5)によると、これらの分野ではCAP/BEPと職業バカロレアとの失業率の差が極めて低い。それに対して、これら二つの資格の間で失業率が大きく改善する分野がある。CAP/BEPと職業バカロレアの失業率を以下の分野で対比させると、美容・理容・エステ(29%:6%)、服飾・繊維・皮革(36%:15%)、ホテル・観光(23%:7%)、農業・牧畜・林業(18%:6%)となり、これらの分野では職業バカロレアが職業参入に効果的な役割を果たしていることがわかると同時に、事務・サービス分野では、CAP/BEP取得者の行きづまり状況が職業バカロレアにももちこされているのが確認される。

(11)CAP/BEP資格の労働者と職業バカロレアをもった労働者の比率は、1982-90年には十人に一人だったのが、1996年には二人に一人にまでなった(Eckert 1999 :238)。労働現場における職業バカロレア取得者のこれほどの増加は、工場における生産様式の変化ばかりでなく、職業バカロレア取得者が労働者の地位にとどめられていることの帰結でもある。

(12)Beaud (2002b)は職業バカロレアから、短期の高等教育課程に進もうとして果たせなかった職業高校生たちの実態を調査している。それによるとBTS等の「バカロレア後2年」の短期高等教育資格が、労働者と技術職の分岐点となることは職業高校生たちにも広く認識されており、彼らは当然のことのようにこの上級課程への進学を望むのだが、多くのものが選抜に漏れてしまう。この課程へ入れるのは、普通・技術高校出身者が多いからである。職業バカロレアを取得することが高等教育への入り口を保証すると思っていた職業高校生たちは、この時点であらためて彼らが中学時代に経験した進学コースからの排除を経験することになるのである。

(13)「見習い職業訓練」は、多く中学校終了以後、企業の現場で働きながら、見習い生徒のための学習センターで一定時間授業を受けながら、職業資格の取得を目指す。職業高校の短期課程と競合するCAP/BEPの見習い生の数は、1995年以来ながらく23万人ほどで推移してきたが、2009年から大幅に減少し、2011-12年には19万人弱となっている(教育統計年鑑(Repère 2013, p.155参照)。これに対して職業バカロレア等のレベルIVの見習い生は同時期から大幅に増加している。

(14)第3節でみたように、BEP課程の生徒は2000-2008年の間で大幅に減少しているが、同じ短期資格でも、CAPは同時期に6.3万人から9.6万人に増加している。この増加は職業訓練見習いに対する近年の再評価と相関していると思われる。

(15)Jellab(200865)によれば、職業高校では、BEP-職業バカロレアという主要路線の陰に隠れて、CAP課程は「リメディアル教育」とみなされるまで価値が下落しているという。

(16)Palheta (2012 :281)が引くパネル調査によれば、2000年時点で職業教育課程にいる生徒のうち、父親が外国生まれの場合、職業訓練に行く比率は、父親がフランス生まれの場合に比べ、男女とも半分くらい(前者は男子16.4%、女子8.7%に対して、後者は男子32.7%、女子18%)となっている。同様にCAPについても、父親が外国生まれの場合、男子28.7%、女子18.8%に対して、父親がフランス生まれの場合、男子35.3%、女子26.1%となる。

(17)職業高校での短期資格取得後、職業バカロレアなどのレベルIVの資格をめざす生徒の比率も、移民系の女子では50%近くになり、35%弱の土着フランス人を大きく上回る。

(18)人種的特徴のゆえに、職業訓練や研修の受け入れ企業を見つけにくいという事実は、将来の失業の前触れのように受けとられる(Jellab2008 :122)。また、たとえ移民系の生徒たちが職業高校以上の高学歴を得たとしても、そのレベルの「フランス人」が必ず存在するから、自分たちが人種差別的扱いによって排除される可能性があいかわらず残る。職業バカロレアやそれ以上の学歴を得ても、資格にふさわしい職につけない事例を、彼らは家族など自分の周辺から知っている。高い学歴すら差別にさらされるという現実は、学歴追求の動機づけをくじく契機となり、移民系生徒たちを新たなジレンマに追いこむPalheta (2012 :295)

(19)Beaud et Pialloux (2002, ch. 8)が詳しく記述しているように、労働者の中で人種差別的緊張関係が生じたのも、労働者の世界が失われてゆくのと時を同じくしている。伝統的な組合運動のわく組では、労働者は「外国人」を排除せず、仲間として扱った。それは、人種間平等の理念のためばかりではなく、自分たちより下位の労働者層を作り出すことが自分たちの利益にならないことをよく知っていたからだと思われる。そういう層が生まれたら、自分たちも彼らと同じ労働条件に引き寄せられることになると予想できるからである。

(20)当然のことながら、社会階層間には生活条件に関して大きな格差が存在する。所得・資産等に関してまとめられた比較的最近のデータを、L’Observatoire des inégalités(2011)の記事からみてみよう。

 

 

上級管理職

労働者

備考

月収

4,083

1,523

(ユーロ)2008)

平均資産

200,508

9,604

(ユーロ)2004)

子どもの最終学歴

75.7

34

普通バカロレア取得率(%)(2008年)

失業率

3

11

(%)(2009年)

機械的労働環境

1.7

38.8

流れ作業/機械の動作に従属する労働の比率(%)(2005年)

寿命

47

41

35歳以後、健康で生きられる年数(2003年)

長期休暇

71

41

長期休暇に出かける割合(%)(2010年)

文化活動

60

43

文化活動をする比率(%)(2008年)

条件の悪い住居

8

20

条件の悪い住居に住む比率(%)(2006年)

 

 こうした経済・社会的かつ文化的な格差を是正してゆくことが、教育格差の是正の前提になると考えられる。

 

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Problems concerning the occupational integration of French vocational school students

Fumio Arai

Abstract

 In this paper, we try to illustrate the structure of the impasse in which students of French vocational school find themselves caught between refusal to engage in physical labor and the improbability of their pursuit of higher education. The students of vocational schools share two characteristics: they are “relegated” to vocational schools because of their poor school results and they come from families belonging to the “dominated” social classes. Vocational schools, it is true, have the undeniable function of reproduction of the social structure.

 Because of the severe conditions of the labor market and the “inflation” of educational qualifications, these students tend to look for a higher degree, often without success. On the other hand, they are not able to reorient themselves toward integration into workforce, as the working class has lost its cultural and symbolic autonomy and become no longer capable of assuring them the basis of their working class identity. As they are blocked in both ways, they are obliged to choose not to choose.

 

Keywords: workforce integration, French vocational school, reproduction of the social structure, inflation” of educational qualifications, working class identity